SSブログ

被弾圧を条件として成立した真宗  真宗遺族会事務局長 菅原龍憲 [2007年4月1日号(第87号)]

(一)
 承元元年(一二○七年)、「承元の弾圧」における親鸞聖人流罪から今年が数えて八百年の年になります。歎異抄の最後に唯円は流罪の記録を綿密に記述し、「流罪以後、愚禿親鸞と書かしめ給う也」と記しています。聖人をして終世、無戒名字の僧・愚禿と名告(なの)らしめたものは、この承元の弾圧における流罪の体験であったことが明記されています。
 それは権力によって、その存在の場を奪われたものの事実を言いあらわしたものといえます。まさにこの弾圧事件が聖人の終世の転機としてあったことが感動的に伝わります。
 私はこの念仏弾圧事件を抜きにして真宗という宗教は語ることはできないと思っています。念仏の信は、神々を背景として支配する社会のもとで卑小な存在でしかありえなかった人々に、人間の尊厳と平等の自覚を促すものでありました。そこに念仏の信に立脚した新しい人間像が成立し、そのような人々が教団を形成していったことは必然のことでありました。それは全く新しい社会が生み出されていくことを意味し、当然のように自らの保身をはかる時の権力によって教団は弾圧されていきました。いってみれば被弾圧を必須条件として成立したのが真宗ではなかったでしょうか。

(二)
 「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり」(教行信証)とは、聖人が承元の弾圧のときに宣言されたものでありますが、このとき念仏教団はほとんど壊滅状態にあったといえます。そこにおいてなお「証道いま盛んなり」と言わしめたものはなんであったのでしょうか。
 念仏禁止の断を下した後鳥羽上皇が、こよなく寵愛した栂尾の明恵は「称名一行は劣根一類のために授かるところ也。汝、何ぞ天下の諸人を以て、皆下劣の根機となすや。無礼の至り」と念仏教団を指弾しました。このような非難圧迫が、これまで本旨本流という仏教の名をかかげてきた旧仏教の教団の、いかに自らにおいて「行証久しく廃(すた)れ」ているかという実体を露呈してしまいました。そして念仏の信が、この苦難の世を生き抜いていく力を人々に開く真の仏道であることを、ひろく証(あかし)することとなったといえます。

(三)
 この「ひそかにおもんみれば・・・」という教行信証後序の文言をめぐって、とても興味深い事象があります。それは一九六五年からほぼ二十年にわたって係争された「家永三郎教科書裁判」であります。氏の著述された高校の歴史教科書「新日本史」に対する、文部省の検定が妥当か否かが問われた裁判であります。
 家永氏の一連の訴訟(第一次~第三次)は日本の戦争犯罪に関わる記述が中心であったことは衆知のことですが、実はその中に一点、これはほとんど報道等では取り扱われなかったものでありますが、「親鸞に関する記述について」(第三次)という項目がありました。
その内容は次のようなものです。「(新仏教の開祖たちは)これまで国家権力や支配層のための現世利益祈祷に奉仕してきた旧仏教の姿勢を根本的に否定し、宗教の世俗権力に対する自主独立の立脚を明白にしたことであった」
「そのために、かれら権力と結びついていた旧仏教教団の憎しみをかい、法然・親鸞らは朝廷から弾圧をうけたが、親鸞はこれに対し、堂々と抗議の言を発して屈しなかった」。
 これに対して検定側は、それは親鸞が弾圧のときに宣言したものではなく「あとになって、親鸞が教行信証を著わした際、その当時のことを追憶」したものであると主張したわけです。
 従来の教科書における親鸞の記述は、「民衆性」や教義の「簡易性」という面のみが主張され、念仏弾圧の事実やそれへの批判姿勢などについては全く記述されてきませんでした。親鸞の思想や教義の成立は、弾圧とは不可分な関係にあるものとして、あえて家永氏は教科書に記述し、問題を提起したのであります。しかしこの指摘を本願寺教団はほとんど無視し、今日に至るまで課題にしたことは全くありませんでした。むしろ本願寺の学僧である梅原隆章氏は文部省側の証人として法廷に立ち、検定側が主張する、「追憶回想」を擁護し、さらには赤松俊秀氏の著書を引用し「親鸞がそれ(専修念仏停止)に巻き込まれて越後国に流罪に会った」(下線筆者)ものだと述べたことが記録されています。

 (四)
 戦後六十余年、なお時代状況への全き追従という伝統から一歩も抜け出ようとすることのない本願寺教団、神道が真宗とは異質な宗教であることを自覚できないほどの精神状況を生み出してしまっている教団、それは真宗教団としての実質はほとんど絶望的な事態といわねばなりません。
 現在の靖国をめぐる政治的動向、自治会神社費問題など、それはまた現代における新たな宗教弾圧の様相を帯びてきました。流罪八百年を迎える今、私たちは聖人が「五濁悪世」と断じられた現実の様々な課題を真宗に問い、そこから私たち自身の課題として担い直していくことが今、きびしく問われているように思います。(山陰教区 正蔵坊住職)

親鸞

親鸞

  • 作者: 古田 武彦
  • 出版社/メーカー: 清水書院
  • 発売日: 2000
  • メディア: -



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。