「千の風」私見 倉岡光紀 [2007年10月1日号(第89号)]
私のお墓の前で泣かないでください/私は永遠の眠りになんてついていません/ほら、もう千の風になって世界をかけめぐっています/雪にきらめくダイヤモンド/穀物に降り注ぐ陽の光/優しい秋の雨になって そっと光っています/あなたは大きないのちに包まれているのです/私に会いたくなった時 ナモアミダブツと呼んでください/私はいつでもあなたのそばにいます/だから もう泣かないでください/私は死んではいません/いつでもあなたのそばにいます 西脇顕真補作
右の詩は、西脇氏補作ですが、新井満氏の「千の風・・」も、人々の共感を呼び好評を博しています。
千の風になって死後もあなたの目前に私はいますよ、だから悲しまないでくださいというチャッチ・フレーズが人々の心に訴えるということでしょう。人々に人気のある「千の風になって」を、西脇氏補作の詩でCD製作をし伝道の一環とする宗門の態度にはいささか異見を持つものです。巷間での人気はいざ知らず、この詩の主旨が浄土真宗の教義に適っているかどうかにかかります。「千の風」は、生者が死後も輪廻転生により、自然の万物に生まれ変わるという思想とみてとれます。人は死後も魂の永続を願い、願わくは子孫の繁栄を見、加護したいと思うのは人間の願うべきことでもあります。
ところで佛教では、死後は無記の教えとされ、死後にとらわれることは、無明であります。死後は浄土真宗では、往生し、佛になると説かれます。佛になるとは、真如の世界、法身の世界にゆくことで、物体の世界となり眼前に見える物へと変化するものではないと思うのです。
世間の人々が感動しているのは、風となり光となって私達を見守ってくれているという所だと思うのです。この現世から死後の世界への延長は、中国の道教の流れではないでしょうか。よしんば眼前の情景が、法身からのあらわれであるとしても、千の風の詩では、光や風の表相に視点があり、その奥の法身(真如)の世界への視点は見られません。それは丁度「月をさす指をとらえて」いるものにほかならないと私は思います。
私たちは阿弥陀仏を礼拝の対象としていますが、それは報身佛であり、法身から出ていることをきちんと押さえておくべきだと思います。光や風という可視界の現象を仏(または神)とみなすならば、アニミズムと言われても仕方がないと思います。
こうなれば、もう佛教ではありません。人間界を離れた神なのですから。人間と断絶した神の恩寵であり、憐れみであります。
世人の喜ぶと言うか安心する境地には、信心の相は見られません。「安心する」から、心の安らぎを得られるからいいじゃないかとおっしゃる同行者がおられるとすれば、「宗教は心の安らぎ」と思っておられると思います。が、果たして「宗教は心の安らぎ」でしょうか。
浄土真宗においては、死後の安心が目的ではない筈です。御文章の文明三年、出家発心の章「当流親鸞聖人の一義は、他力の信心を決定せしむるときは・・即得往生住不退転ととき、一念発起入正定之聚、不来迎の談、平生業成の義・・億念の心つねにして・・信心の行人・・」とある。自然界の現象に心を安らぐというより、〝目は外より我が内に向けらるべき〟であります。
自分独り心安らかに悟りを得るのは簡単と思います。が、社会の共同体の中で生活している限り佛になるより、法蔵菩薩のはたらきを現世でやっていかなければならない。そこには苦の世界が待ち受けている。この苦の中で生きるのが、僧であり沙門であり、凡夫を思い知りながら、大乗佛教のはたらきを愚になっておつとめさせていかねければならないと思います。
〝私の前に灯火を掲げて行く人あり〟この人を師とし、佛の慈悲として有難くいただき、信心ある人を見出す時、佛に出遇って、佛の後姿を拝んで、与えられていくのであります。宗教は安心ではありません。私にとっては地獄の相であります。
人間「信じなさい」と言われて、信じることのできるのは、至難の業であります。それで「難中之難無過斯」「説此難之法 是為甚難」とあるのではないでしょうか。証拠が無ければ信用しないのが人間です。私たちは〝佛に支えられている〟という体験を持ってはじめて、佛の方に向くのだと思います。凡夫の自覚をまざまざと思い知らされることによって、佛への讃仰が生まれてくるのです。そして念仏の行人となってゆくのであります。
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