真の日韓友好はここから(上) 甲斐利雄(明成皇后を考える会) [2008年7月1日号(第92号)]
韓国李王朝最後の女帝・閔妃は、広辞苑や熊本県大百科事典では、「びんぴ」の項に出ています。死後におくり名されて、現在は普通「明成皇后(ミョンソンファンフ)」と呼ばれています。
私は冬になると毎年のことですが、今年も小さな和凧六十枚手作りしました。絵は赤青黄の巴模様、その下に無窮花(むくげ)の花三輪を配し、その脇に、「日韓の過去を直視して さらなる友好を」と書き添えました。
ポスターも手書きです。「知るべきを知らされず、教うべきを教えてこなかった。それが『明成皇后暗殺』です」とフレーズを付けました。いろんな会場に凧とポスターを展示させてもらいました。いろんな方に語りかけては、凧を差し上げました。宣伝効果は、即訪問団応募にはなりきれません。もどかしさが残ります。
「明成皇后暗殺」、韓国ではみんなが知っている。しかし、日本では、この日韓の忌まわしい過去がほとんど知られていないのです。
時は、今から113年昔のことです。
日本は日清戦争に勝って、多額の賠償金と領土を清国から取ったのですが、三国干渉により遼東半島だけは戻さねばなりません。韓国国王・高宗(コジョン)は、日本による政治圧迫を跳ね除ける良い機会がやって来たと思い、それからはぐんぐんロシア側へ寄って行きます。
日本政府は、韓国をロシアに取られてしまうのではと、危機感を募らせます。当代随一の朝鮮通と言われた井上公使さえも遂に打つ手がなく、後任に三浦梧楼公使を迎えます。
その頃、日本国内では、高宗の親ロシア政策は、閔妃から出たものだから「閔妃殺(や)るべし」の声が上がっていたそうです。
1895(明治28)年10月8日の早朝、閔妃と対立関係にあった国王の父・大院君(テウォングン・閔妃にとっては舅)は、日本人壮士達に担ぎ出されて、突如王宮に乱入しました。
いくらかの戦闘はあったが、閔妃の見分けがつかないままに、閔妃らしき女官を三人斬りました。探索の末やっと閔妃がわかると、油をかけて焼き捨てたのです。(日本外交文書機密第三十六号)
朝もすっかり明るくなった中での大事件です。アメリカ人、ロシア人がその現場を目撃し、市民大勢も日本人が王宮から引き揚げて行くのを見ていました。
日本政府は、世界の非難が日本に集中するのをおそれて、事件関係者四十八名を広島裁判所につなぎ審問。その結果、事件発生から89日目の翌年1月20日、「証拠不十分につき全員放免(無罪)」にしました。
一同は東京新橋駅で、佐々友房や貴衆両院議員他、数百名の歓迎をうけました。(東京日日新聞)
実はこの事件の指導者は、朝鮮公使・三浦梧楼でした。また驚いたことに、48名中21名が熊本県人でした。彼らは、皇后居室の乾清宮へまっしぐらに飛び込んで行ったそうです。名だたる大政治家安達謙蔵もその一人、当時は漢城新報社長でした。小早川秀雄は、後で九州日日新聞(現・熊日)の社長、松村辰喜は、阿蘇を国立公園に格上げして、観光阿蘇への道を拓きました。等々。本年2月1日の『熊日』、「上塚周平とその時代」にも関係者達の人脈模様とその後の日本のことが見られます。
「明成皇后を考える会」発足に大きな刺激を与えた韓国人ドキュメンタリスト・鄭秀雄(チョンスーウン)さんが、東京の国会図書館に埋もれていた政治家の書簡コピーを百数十枚持ち込んできました。熊大の小松教授が解訳、鄭さんが感じ取っていたのとほぼ同様でした。
三浦首謀説へ誘導せんとする言説を流布した元老権力者達が、裏では三浦に「閔妃殺害」を教唆していたのではあるまいか。鄭さんの真実を追究する活躍は続けられています。
現在、韓国演劇の話題の二作は、共に明成皇后の生涯と悲運を描いたものです。この舞台で、韓国にも日韓歴史の真実を考える人が増えていくと思われます。
そんな今だから、皇后暗殺の中心勢力を出した熊本が、全国に先駆けて声を上げねばならない。その声を全国に波及させたいと願うのです。
第三次明成皇后史跡訪問団は、10月6日から9日まで。今回は皇后第113回忌の命日墓前法要に参列します。日本人の団体が、命日墓参するのはまさに初めてで、日韓友好史にのこる記念日になります。沢山のご参加を期待しています。 〔阿蘇市一の宮・在住〕
私は冬になると毎年のことですが、今年も小さな和凧六十枚手作りしました。絵は赤青黄の巴模様、その下に無窮花(むくげ)の花三輪を配し、その脇に、「日韓の過去を直視して さらなる友好を」と書き添えました。
ポスターも手書きです。「知るべきを知らされず、教うべきを教えてこなかった。それが『明成皇后暗殺』です」とフレーズを付けました。いろんな会場に凧とポスターを展示させてもらいました。いろんな方に語りかけては、凧を差し上げました。宣伝効果は、即訪問団応募にはなりきれません。もどかしさが残ります。
「明成皇后暗殺」、韓国ではみんなが知っている。しかし、日本では、この日韓の忌まわしい過去がほとんど知られていないのです。
時は、今から113年昔のことです。
日本は日清戦争に勝って、多額の賠償金と領土を清国から取ったのですが、三国干渉により遼東半島だけは戻さねばなりません。韓国国王・高宗(コジョン)は、日本による政治圧迫を跳ね除ける良い機会がやって来たと思い、それからはぐんぐんロシア側へ寄って行きます。
日本政府は、韓国をロシアに取られてしまうのではと、危機感を募らせます。当代随一の朝鮮通と言われた井上公使さえも遂に打つ手がなく、後任に三浦梧楼公使を迎えます。
その頃、日本国内では、高宗の親ロシア政策は、閔妃から出たものだから「閔妃殺(や)るべし」の声が上がっていたそうです。
1895(明治28)年10月8日の早朝、閔妃と対立関係にあった国王の父・大院君(テウォングン・閔妃にとっては舅)は、日本人壮士達に担ぎ出されて、突如王宮に乱入しました。
いくらかの戦闘はあったが、閔妃の見分けがつかないままに、閔妃らしき女官を三人斬りました。探索の末やっと閔妃がわかると、油をかけて焼き捨てたのです。(日本外交文書機密第三十六号)
朝もすっかり明るくなった中での大事件です。アメリカ人、ロシア人がその現場を目撃し、市民大勢も日本人が王宮から引き揚げて行くのを見ていました。
日本政府は、世界の非難が日本に集中するのをおそれて、事件関係者四十八名を広島裁判所につなぎ審問。その結果、事件発生から89日目の翌年1月20日、「証拠不十分につき全員放免(無罪)」にしました。
一同は東京新橋駅で、佐々友房や貴衆両院議員他、数百名の歓迎をうけました。(東京日日新聞)
実はこの事件の指導者は、朝鮮公使・三浦梧楼でした。また驚いたことに、48名中21名が熊本県人でした。彼らは、皇后居室の乾清宮へまっしぐらに飛び込んで行ったそうです。名だたる大政治家安達謙蔵もその一人、当時は漢城新報社長でした。小早川秀雄は、後で九州日日新聞(現・熊日)の社長、松村辰喜は、阿蘇を国立公園に格上げして、観光阿蘇への道を拓きました。等々。本年2月1日の『熊日』、「上塚周平とその時代」にも関係者達の人脈模様とその後の日本のことが見られます。
「明成皇后を考える会」発足に大きな刺激を与えた韓国人ドキュメンタリスト・鄭秀雄(チョンスーウン)さんが、東京の国会図書館に埋もれていた政治家の書簡コピーを百数十枚持ち込んできました。熊大の小松教授が解訳、鄭さんが感じ取っていたのとほぼ同様でした。
三浦首謀説へ誘導せんとする言説を流布した元老権力者達が、裏では三浦に「閔妃殺害」を教唆していたのではあるまいか。鄭さんの真実を追究する活躍は続けられています。
現在、韓国演劇の話題の二作は、共に明成皇后の生涯と悲運を描いたものです。この舞台で、韓国にも日韓歴史の真実を考える人が増えていくと思われます。
そんな今だから、皇后暗殺の中心勢力を出した熊本が、全国に先駆けて声を上げねばならない。その声を全国に波及させたいと願うのです。
第三次明成皇后史跡訪問団は、10月6日から9日まで。今回は皇后第113回忌の命日墓前法要に参列します。日本人の団体が、命日墓参するのはまさに初めてで、日韓友好史にのこる記念日になります。沢山のご参加を期待しています。 〔阿蘇市一の宮・在住〕
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