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「こだま」と私と不協和音   遠山雅美 [2010年7月1日(第100号)]

 今号で百号を迎える「こだま」を私は一体いつの頃から読み始めたのだろうと、記憶をたどってみますが、なかなか思い出せません。ただ、当時こだまを読む毎に残るのが、なんともいえない違和感だったことを思い出します。

 それは、何故ここまで社会の問題と向き合えるのか、何故ここまで人と向き合えるのかという疑問や、私にはできないという後ろめたさや、その真摯な生き様への憧れなど、様々な思いが絡み合ったとても複雑なものでした。

 たとえば、ヤスクニ問題への取り組みです。もちろん私には問題の本質も分かりませんでした。そして何より、向き合うには大きすぎる相手です。私に何ができるでしょう。また、佐賀県の自治会神社費を拒否し村八分状態に置かれた方への支援です。新聞記事を見、放っておけないと会いに行く…、そこから始まる地道な支援です。

 これらのことを読むにつけ少しずつ蓄積される違和感は、いつしか私の中で不協和音となって響いてきました。それはまるで私に安らかな時間を許さないかの如きでした。けれど、この違和感が、不協和音を奏でると同時に、考える機会を与えてくれ、時間はかかりましたが、学びへと導いてくれたように思います。

 このことをきっかけとして、たくさんの人に出会い、大切な言葉に出会いました。

 「仏法を根底にすえ互いがぶつかり合う、そこから真実が見えてくると思います」文言の一字一句は定かでありませんが、何かの折の藤岡崇信先生の言葉です。

 何故ここまで…という疑問に対し、仏法に依って生きる人の必然の歩みであったことを示された気がしました。

 一方、その歩みを理解できなかった私は、教えに出遇っているつもりが、自分が救われる喜びに終始するのみで、社会の矛盾を問題として捉えることもできず、自分以外の誰かの悲しみに目を向けることもなく、仏法さえも自分に都合よく受け取っていたに過ぎなかったのです。

 仏法を根底にすえた発信が、そんな私に不協和音を起こさせるのでしょう。楽な道のりではありませんが、私はこれからもこの不協和音を抱えながら歩いていきたいと思っています。合掌〔熊本組、広徳寺坊守〕


それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

  • 作者: 加藤陽子
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2009/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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