小林麟也先生を偲び 葉山武志(小林病院院長) [1999年7月1日(56号)]
1998年の9月24日に満75歳で、誕生日に癌で亡くなられた小林麟也先生の「生き方」と、「私達への宿題」を書き綴ってみます。
病気の初めは、平成4年10月に黄疸から総胆管癌が見つかり、済生会熊本病院で手術を受けられます。しかし、ここでは本人への病名告知は有りませんでした。
その後は、あたかも完治したかの様な元気さで、医師として診療に携わり、何事もなかったかのように笑顔で仕事をこなしておられましたが、再発は避けられませんでした。
再発から亡くなられるまで、自分の身体と心の変化を通して、「人が死と向きあうには何が必要であるか」を自分の思うまま感じるままに、周りの者たちに語り続けられました。闘病中は先生の「人生観や死生観」が熱く語られ、そして「死に臨む者にも最後まで希望を与え続けなければならない」と、言い残されて亡くなられます。
60歳の時に出版された『一歩さがって』に先生の生き方の一面が示されています。
ある日、武帝が「(私は)随分と人々のために尽くしてきたつもりだが、(あなたは)どう思うか」と尋ねますと、達磨大師はただ一言、「無功徳」と答えます。このことを先生は、「達磨さんが言われた意味は、人間の一生と言うものは、人の役にたとうがたつまいが、そんなことはどうでもよいことであって、自分でその価値を考えるよりも、毎日の暮らしをせいいっぱいに生きる努力をすることである。」と解釈し、自分の生活信条として、誰も知らなくてよい。ただ自分自身で生涯の過去を振り返ってみて、少しは私も世の中のためになったかなと、自己満足ができるならそれでよい。そして死を迎えたとき、知り合いの人たちが、「あの人の葬式だからちょっとでかけようかと来てくれる死に方をしたい」と書いておられ、「人生は無功徳で背伸びしないで、皆と仲良く暮らすことが一番である」と締めくくられています。
このように穏やかな生活を望まれ、「死」に望んでもこころ静かに時を過ごされるかに見受けられたが、済生会病院で言われた「もう打つ手はなかです」の一言が、先生の穏やかなこころを一時乱します。
昨年の6月24日に、「葉山先生を呼んでくれ」の呼び出しに先生の寝室に伺います。先生は点滴を受けながら、ぽつりぽつりと今までには無い語り口で自分の心情を話されました。
「先生、もう(病気に)打つ手が無かと言われるとつらかですな」
「ただ死ぬのばじっと待っとくのもきつかですばい」
「自分としては、自分の身体のことは全部知っといてから死にたかです」と、今までに見られなかった先生の素顔に、私は戸惑いを感じながらゆっくりと二人で話し合います。
「先生、身体のことを全部知りたいですか」
「全部知りたか。今まで、フイルム(レントゲン写真)の一枚も見せてもらっていないから、どうなっているのかわからん」
「分かりました。それでは話をいたします。癌は肝臓に転移をしていてそう長い命では有りません。しかし、もう手がないわけでも有りません。私達に任せていただけませんか。」
「そうですか、まだ手は有りますか。お願いいたします」と言われ、少し顔に赤みが差し、笑顔が見られ、その後、先生の希望が淡々と語られました。
「同じ死ぬなら、満75歳で死にたかですな。9月24日までは生きときたかです。」
「では私達も頑張ってみましょう」と話をしますが、何か周りの空気が冷たいのです。締め切った部屋とはいえ空調も適度なのに、私の周りに漂うこの寒々とした空気は何なのか、別れを実感した者の悲しく辛い気持ちは、こんな状況の中で告知を聞いていたのかと思うと、患者さんと家族の気持ちを私はどれだけ理解し寄り添っていただろうかと頭を殴られた思いでした。
その後、先生は色々なことが吹っ切れた様に、今までに関わってこられた人と精力的に会われます。医師として、面会を控えたがいいのではないかの言葉にも、「いいんです。面会に来られる人にはどなたにでも会っておきたいんです。調整は自分でいたします。」と、亡くなられる前日の夕方まで面会を許されます。
先生は、死を見つめての経験から、「死を間近に感じている者にも生きる希望を与えなければならない。肉体的には滅びるとしても、死への不安や恐怖にどう対応し、限られた時間の中で希望を持たせられる霊的ケアに、宗教的立場の者も関わらなければ終末医療(ホスピス医療)は完成しない」と、私達に宿題を残されました。そして、先生の生活信条のように、先生の死は多くの人の涙を誘い、地域の人々の二千人を超える葬儀の参列をみます。
先生は浄土で「してやったり」と得意満面でおられることでしょう。お会いしたら聞いてみたいものです。 合掌
病気の初めは、平成4年10月に黄疸から総胆管癌が見つかり、済生会熊本病院で手術を受けられます。しかし、ここでは本人への病名告知は有りませんでした。
その後は、あたかも完治したかの様な元気さで、医師として診療に携わり、何事もなかったかのように笑顔で仕事をこなしておられましたが、再発は避けられませんでした。
再発から亡くなられるまで、自分の身体と心の変化を通して、「人が死と向きあうには何が必要であるか」を自分の思うまま感じるままに、周りの者たちに語り続けられました。闘病中は先生の「人生観や死生観」が熱く語られ、そして「死に臨む者にも最後まで希望を与え続けなければならない」と、言い残されて亡くなられます。
60歳の時に出版された『一歩さがって』に先生の生き方の一面が示されています。
ある日、武帝が「(私は)随分と人々のために尽くしてきたつもりだが、(あなたは)どう思うか」と尋ねますと、達磨大師はただ一言、「無功徳」と答えます。このことを先生は、「達磨さんが言われた意味は、人間の一生と言うものは、人の役にたとうがたつまいが、そんなことはどうでもよいことであって、自分でその価値を考えるよりも、毎日の暮らしをせいいっぱいに生きる努力をすることである。」と解釈し、自分の生活信条として、誰も知らなくてよい。ただ自分自身で生涯の過去を振り返ってみて、少しは私も世の中のためになったかなと、自己満足ができるならそれでよい。そして死を迎えたとき、知り合いの人たちが、「あの人の葬式だからちょっとでかけようかと来てくれる死に方をしたい」と書いておられ、「人生は無功徳で背伸びしないで、皆と仲良く暮らすことが一番である」と締めくくられています。
このように穏やかな生活を望まれ、「死」に望んでもこころ静かに時を過ごされるかに見受けられたが、済生会病院で言われた「もう打つ手はなかです」の一言が、先生の穏やかなこころを一時乱します。
昨年の6月24日に、「葉山先生を呼んでくれ」の呼び出しに先生の寝室に伺います。先生は点滴を受けながら、ぽつりぽつりと今までには無い語り口で自分の心情を話されました。
「先生、もう(病気に)打つ手が無かと言われるとつらかですな」
「ただ死ぬのばじっと待っとくのもきつかですばい」
「自分としては、自分の身体のことは全部知っといてから死にたかです」と、今までに見られなかった先生の素顔に、私は戸惑いを感じながらゆっくりと二人で話し合います。
「先生、身体のことを全部知りたいですか」
「全部知りたか。今まで、フイルム(レントゲン写真)の一枚も見せてもらっていないから、どうなっているのかわからん」
「分かりました。それでは話をいたします。癌は肝臓に転移をしていてそう長い命では有りません。しかし、もう手がないわけでも有りません。私達に任せていただけませんか。」
「そうですか、まだ手は有りますか。お願いいたします」と言われ、少し顔に赤みが差し、笑顔が見られ、その後、先生の希望が淡々と語られました。
「同じ死ぬなら、満75歳で死にたかですな。9月24日までは生きときたかです。」
「では私達も頑張ってみましょう」と話をしますが、何か周りの空気が冷たいのです。締め切った部屋とはいえ空調も適度なのに、私の周りに漂うこの寒々とした空気は何なのか、別れを実感した者の悲しく辛い気持ちは、こんな状況の中で告知を聞いていたのかと思うと、患者さんと家族の気持ちを私はどれだけ理解し寄り添っていただろうかと頭を殴られた思いでした。
その後、先生は色々なことが吹っ切れた様に、今までに関わってこられた人と精力的に会われます。医師として、面会を控えたがいいのではないかの言葉にも、「いいんです。面会に来られる人にはどなたにでも会っておきたいんです。調整は自分でいたします。」と、亡くなられる前日の夕方まで面会を許されます。
先生は、死を見つめての経験から、「死を間近に感じている者にも生きる希望を与えなければならない。肉体的には滅びるとしても、死への不安や恐怖にどう対応し、限られた時間の中で希望を持たせられる霊的ケアに、宗教的立場の者も関わらなければ終末医療(ホスピス医療)は完成しない」と、私達に宿題を残されました。そして、先生の生活信条のように、先生の死は多くの人の涙を誘い、地域の人々の二千人を超える葬儀の参列をみます。
先生は浄土で「してやったり」と得意満面でおられることでしょう。お会いしたら聞いてみたいものです。 合掌
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