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変革上人の御法要は宗祖の思いに還る変革で  禿 浩道 [1998年1月1日(50号)]

 本願寺新報に、組巡教に於ける法座の、物忌みしない真宗で、ご正忌や年忌と「忌む」文字を使うのは何故か、との質問へ、本願寺の担当者の答えが載って居た。(一九九四年三月一日号、新報二面
を御覧下さい。)

 それに納得しない備後教区の住職が担当者に問うた答えのゆきかいは、本願寺新報には載りませんでした。

 従いまして、「こだま」の使命として、広くさまざまな声を、こだまさせ合う所に出発しました季刊紙として、その問答のさわりを御紹介します。

  新報に載らなかった問答のさわり
 質問二の⑤ 親鸞聖人は「死穢」などの「忌み」思想がひろまり、中陰・年忌等の追善供養が勤められていた時代に、まったく「忌」という言葉をつかわれていませんが、あえてつかわれなかったと私は思いますが、どうでしょう。

 この他に⑬項目の質問を列記されて、最後に、書面にてお返答いただければと切に願うものです。と問われ

 本願寺担当者は私信として
 先日から大変有り難うございました。ご要求の文は書かないことにいたします。(中略)何よりも負担が重すぎてへしゃげそうですのでお許し下さい。と答え、問答にピリオドが打たれている。

 このような問答がゆきかっております。こうした問答を通して読者の頭の整理にお役に立てればと存じます。もう少し全体の問答の詳細をご希望の方は、お申し出下さい。

 結局、この問答であきらかになった事は、宗祖の思いから、かけはなれた、長い歩みを歩み続けて来た歴史を背負って居る本願寺がその歴史の足かせによって、答えに窮したのでありましょう。

 法座の問いに於ける、物忌みしない真宗で、ご正忌や年忌と言って忌む文字を使うのは何故か?という門信徒からの問いに対して、その答えを引き出すには、宗祖の著述から引き出すのが本来でありましょう。
 宗祖の思いのあらわれた所は、御消息四三通(注釈版八〇八頁)をお読み頂きたい。

 法然上人のご命日を、念仏につながる良き御縁の日として集い、自覚覚他の目覚めの場となる法事にされていらっしゃる。

 この事を通してうなづける事は、注意深く忌の言葉をさけて表現されている。

 その他一切の宗祖の著述に「忌」という言葉は登場して居ない。

「親鸞聖人著作用語索引・教行信証の部・和漢撰述の部」でも索引する事が出来ない。という事は、一生涯意識して、この言葉をお使いにならなかったのだなあ!と強固な意思に感動を覚ゆる事です。

 真宗に於いて、是非とも、日本古来の習俗にしばられた世界から脱却したいという強い意思が読み取れます。真宗であればこそ脱却出来る、阿弥陀如来の救済があるから習俗との決別が出来るとのお手本を、その生涯を通してお示し下さって居る証拠でしょう。

 如何に習俗が民衆を誤らせたか、苦悩に陥れたか、その苦悩を乗り越えて行ける道が真宗にある。忌むという文言を必要としない宗教が親鸞聖人によって登場したのであります。ところが本願寺教団としての歩みの中でこの親鸞聖人の思いが、どこへやら抜け去った反省すべき時を過ごしてしまった。
 来る、変革上人の御法要は、是非当初の宗祖親鸞聖人の思いに還える法要に致したいものであります。
 都合よく変革の上人と特色される上人の法要です。最も大切な変革を起こしましょう。宗祖がなさった法然上人の御法事のように、単なる行事の消化ではなく、自らも大衆も物忌みからの決別を遂げる法要に致したい。つまり遠忌という言い表し方を止めた大法要で新生の本願寺と成る事を切に念
願する次第です。(小国組・善正寺住職)

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