編集後記 [1998年1月1日(50号)]
◎今年は蓮如上人法要の年、「蓮如を」学ぶによい機会である。
蓮如上人に関する多くの出版物の中、「蓮如」への〈批判・鑽仰〉の論が交わされた『続・蓮如への誤解』(永田文昌堂)の、次の一文(要旨)が目にとまった。
「親鸞から二百年も隔たりがある蓮如は、親鸞の言葉のオーム返しをしなかった。なのに今、五百
年前の蓮如の言葉を繰り返している」、「最重要な問題は、相手にどう伝えるかということ以前に何を伝えるかである。よりラジカルには何をどう生きるかだ。それが親鸞と蓮如とは違う」と。
◎この指摘の賛否はそれぞれあろうが、法座の最後に「肝要はご文章で」と拝読する慣習が象徴しているように、今日の教団・教学は間違いなく「蓮如」である。
私には、一体この路線の彼方に「真宗の未来はあるのだろうか?」という思いがつきまといます。
◎この問題を抱える中、小山氏の公開講座が催された。本紙にその要旨を掲載したが、遠藤師のお便り、禿氏の提言、また島北氏の報告も、その延長線上で示唆に富むものであります。
皆さまのお考えもお届け下さい。
◎今号で五十号を数えることになります。今日まで皆さまのご援助で発刊できましたことを心より感謝申し上げます。(藤岡)
蓮如上人に関する多くの出版物の中、「蓮如」への〈批判・鑽仰〉の論が交わされた『続・蓮如への誤解』(永田文昌堂)の、次の一文(要旨)が目にとまった。
「親鸞から二百年も隔たりがある蓮如は、親鸞の言葉のオーム返しをしなかった。なのに今、五百
年前の蓮如の言葉を繰り返している」、「最重要な問題は、相手にどう伝えるかということ以前に何を伝えるかである。よりラジカルには何をどう生きるかだ。それが親鸞と蓮如とは違う」と。
◎この指摘の賛否はそれぞれあろうが、法座の最後に「肝要はご文章で」と拝読する慣習が象徴しているように、今日の教団・教学は間違いなく「蓮如」である。
私には、一体この路線の彼方に「真宗の未来はあるのだろうか?」という思いがつきまといます。
◎この問題を抱える中、小山氏の公開講座が催された。本紙にその要旨を掲載したが、遠藤師のお便り、禿氏の提言、また島北氏の報告も、その延長線上で示唆に富むものであります。
皆さまのお考えもお届け下さい。
◎今号で五十号を数えることになります。今日まで皆さまのご援助で発刊できましたことを心より感謝申し上げます。(藤岡)
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