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差別法名に学ぶ<差別法名・過去帳調査にあたって>2  島北皎誓 [1998年1月1日(50号)]

 1983年1月28日、矢部同和教育研究サークルが、おおよそ一年に亘る調査の結果として、《本派門徒墓石に「釈尼妙 信●(1)」と刻字されている》と問題提起したことにより、宗門の本末共にはじめてその存在を知った。

 このことは、教団の同朋運動の不徹底さと僧侶の差別体質を問うものであった。

一、あなたが同朋運動と言われる 運動は、現に差別の苦しみにある人と共にある運動ですか。 差別の事実の上に立った運動ですか。

二、あなたはあなたの門徒やあなたと共に在る一般社会人が、墓や墓に刻されている文字に、どのような考えを持ち、どのような思いを抱いているか知っていますか。

と問われている。

 しかし、同朋運動の不徹底さゆえに、又僧侶の差別体質ゆえに、その問いを問いとして受けとめることができなかった。

 最初のボタンを掛け損ねたが故に、次々と同朋運動の底の浅さと僧侶の差別体質をさらけ出し続けることとなった。

 問われていること その二

 同年2月14日、同朋運動本部と教務所関係者、そして所属寺と調査に関係のある本派住職によって、第一回目の現地調査が行われた。

 そして「一見して奴と読める」「これは差別を温存し助長するものだ」との見解が出された。

 第二の問いとして、
一、あなたはこの「釈尼妙 信 ●(1)」を見て、どう思い、どう感じ、どう考えますか。
二、あなたは、いま被差別者側に立ってこの墓の前に立っていますか。
三、あなたは、いま自らの差別性 見えていますか。
と投げかけられている。

 この問いも、ほんの限られた少数の人の問いにしかならなかった。

 それよりも、この調査は連絡不充分ということで、矢部同研サークルの人も部落解放同盟矢部支部関係者も不参加のまま行われた。今から考えると同朋運動の弛みと言えるこのことが、当時は何の不審もなく終わっているのである。

 差別法名の墓石ありとの問題提起に対し、「問題にしてはならないの思いか、「問題にしたくない」の思いか、あるいは本当に「何の問題もない」の思いか、さまざまな思いが絡み合って、自らの責任ある判断を放棄した状態であったと痛く思い出される。

 教区の同朋運動が問題を明確に受け止め、正しく判断し、迅速に運動化するに至っていなかったと言える。このことが本部と教区の温度差・不統一となって表われ、問題を益々困難なものにした。

 同年2月15日、矢部同研サークル機関誌21号が発行された。

 『矢部町にも「差別法名」の疑い―急がれる本格調査―』と題して、「釈尼妙 信 の他に異体文字・判読の難しい不明文字・字画の足りない文字三十基。なぜ被差別部落に集中してあるか。」と記され発表された。

 教区はこのような度重なる刺激と本部の要請を受け、3月31日に「矢部町墓石問題調査委員会」を発足させた。

この会を中心に現地懇談会・研修会・学習会・解放運動行事参加等々の運動がなされ、同朋運動の活発化が見えた。

 しかし、この活発に見えた同朋運動も、問われている第一・第二の問いに目覚め、真摯に応えるものではなかった。それ故に、宗門のガード固め・組織を守る・自己保身の運動とならざるを得なかった。

 一方本部の方では、4月28日、部落差別と宗教研究会において再度の問題提起を受け、7月上旬に関係者並びに関係運動体と連絡を十分とって、現地調査を行い、しかるべき運動の展開をする旨の約束がなされた。

 6月26日、教区の調査委員会は「現段階における確認事項」をまとめ、本部に提出した。それは

①墓石の「釈尼妙 真●(1)」は過去 帳の記載と異なり、過去帳には 差別的表示はされていない。したがって差別法名とは即断できない。 推測の範囲であれば様々な可能性も考えることができるが、いずれも現段階では決定的根拠を示し得ないものである。従って差別墓石として規定する。

②このような墓石が長い間現存していることは事実であり、そのことに気付かないまま今日まで来たことを真摯に受けとめ、同朋運動不徹底を反省せねばならない。であった。(山鹿組・光正寺住職)

(1)「奴」に点を付した文字

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