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花畑町本願寺会館の思い出  古井義純 [1998年7月1日(52号)]

 「こだま」編集局より電話があり、戦前の花畑町の仏教会館について記憶を辿って一筆書くように要請がありましたが、大先輩の西光寺の隈部達了先生が適当であろうと、交渉致しましたが、御本人が、二度の応召と老齢のため記憶も薄れているとの事で、止むなく私が筆をとった次第です。全く当てにならない記憶にあやまりも多々あることと思いながら書いてみました。

 仏教会館の位置に近い山崎町に居住していたというだけで、お名指しいただいたような次第です。その法泉寺も昭和20年7月1日夜の大空襲で、一夜のうちに灰塵に帰し、私も学徒出陣で、現役兵として野砲隊に入隊、終戦時には種子ヶ島の守備についていたという事で復員してみれば、木骨コンクリート建ての経蔵だけを残して焼失し、記録という記録も何も無く、思い起こせば、法泉寺の焼け跡に立って市の中心街をながめ、市役所、逓信局、勧業銀行、貯金局、電気館、花畑公園の大楠等が、瓦礫の中に屹立して居たことが思いだされます。

 正確を期すために、教区の長老の方を、寺院名簿で見つけ出そうとしましたが、改めて、殆どが故人となられ、廻り舞台も完全に一廻していることに気づき、隔世の感を余儀なくさせられたことでした。

 当時の会館に常勤して居られました御住職は、石松貞雲管事、柱松義乗先生、粟田主一先生、藤院龍也先生、両嚴寺郡浦先生等、広い会館の本堂を縦横に活躍して居られました。

 花畑町の本願寺会館は、当時一等地に建立されて、ネオンサインの点滅の中に、際立って聳えて居りました。城見町をすぐ下に見て幅広い階段を上がったところが銀杏通りで、近くに三陽百貨店、紅蘭亭、レストランOK、すき焼きの神戸屋、カフェリラ等、軒を連ね賑わいを呈し、後になってニュース専門のニュース会館、温泉プール等、先端を行く建物が目立ち、仏教婦人会有志に依る地づきに始まり、その当時としては、全く威風堂々とした建物の出現に、子ども会の旗行列を行って、奉祝のどよめきの中に、西本願寺仏教会館の表札が掛けられ、浄土真宗伝道の拠点として活動を開始した。

 当時御門主(前門主光照猊下)は陸軍自動車部隊の将校として軍務に服され、兵役解除後は、銃後の守りにつく門信徒の教化に一段と精進され、各地方の教務所を巡回される日が続いた。中でも、当時の父の話として、教区巡回の折り、教区内僧侶を前にして、御親教を賜った折り、随分きびしい言
葉で、僧侶の懈怠を戒められた事が、私の耳底に残っている。よくせきのことであったと想像されます。
 軍部最優先の時代に伝道を通じて必勝の祈願をさせられ、止むを得ず恤兵本部の表札を掲げて、陸軍病院慰問、戦闘機の献納、海軍への船舶建造等に寄附する等、下がり藤と日の丸を胸に、その任務の遂行に邁進する日々であった事が想像されます。

 その間に、全教区を挙げて梵鐘、喚鐘を始め仏具の供出等に翻弄され、それとは逆に、戦況は日に増し敗色が濃くなり、7月1日夜の大空襲によって、さしもの会館も灰塵に帰し、その焼け跡の片付け等、空襲の合間を縫って行われた。

 かくして8月15日終戦を迎え、浄土真宗の本願寺の教線の先端を失う結果となってしまった。惜みても、尚余りあるものがある。〔熊本組・法泉寺住職〕

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