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鉄眼版一切経(大蔵経)  球磨組・忍成寺住職 尾方 尚晃 [2012年10月1日号(第109号)]

 私の手元に大判の『仏説阿弥陀経』の折本があります。

 ひょんなご縁で黄檗山宝蔵院から取り寄せたものです。

 二年ほど前雑誌で黄檗宗本山万福寺塔頭・宝蔵院にある鉄眼版大蔵経の復刻がなされているという情報を目にし、急に欲しくなったことに始まります。


 中国では983年(宋の時代)に初めて大蔵経の木版印刷がなされ、これが日本に伝わったのが九八八年でこのとき日本人が初めて大蔵経を目にすることになったと聞いています。

 高麗でも11世紀に開版された『高麗版大蔵経』が1232年に焼失し、1251年に再調されました。これが現存する最古の大蔵経。この印本が日本にも請来され、後の『大正新脩大蔵経』もこれを底本にしているといわれています。

 日本では輸入した印本は大変な貴重品だったと思われます。書写のみに頼った日本では広く経典を研究できる人は非常に限られたことでしょう。

 日本においても、大蔵経を印本ではなく自ら印刷しようという試みが何度かあったようですが完成せず、ようやく江戸時代(1648年)に天台僧天海によって印刷されました。しかしこれは木製活字を組んで印刷するもので印刷には大変な労力がかかり、印刷できたのはごくわずかであったといわれています。

 そこで鉄眼の登場です。版木に一文字一文字を刻んで版元をつくりそれを大量に印刷するというものでした。1600文字分の版木が6万枚、大変な作業です。


 実は鉄眼道光という人は、浄土真宗しかも熊本県に大変縁の深い人です。

 鉄眼は熊本県益城の真宗の学僧であったということですので教区内にも縁家の方がおられるのかもしれません。

 真宗教団の学究にいそしんでいた鉄眼は、学問の中身よりも出自や人脈が横行する体質に嫌気がさし教団を飛び出し、その後長崎にいた日本黄檗宗の開祖隠元に弟子入りしたということになっています。私個人的には、中国人僧である隠元の経典調達能力も鉄眼にとって大変な魅力だったような気もします。

 隠元のもと、めきめきと頭角をあらわし精進をする鉄眼でしたが彼には長年持っていた大きな課題がありました。それは日本には立派な寺院がたくさんあるのになぜ仏教の一大叢書が広く流布されないのかということでした。

 ついに鉄眼30代の半ば、師の隠元に大蔵経を版木に刻んで大量に印刷をする志を話します。師隠元はこれを喜び中国明代の『万暦版大蔵経』を版元用に渡し、版木収蔵庫として現在の宝蔵院を建立、さらに京都の木屋町に版元(印房)を置くことにしました。

 しかしこの計画には大変な資金を必要とします。まず良質な版木が要ります。

 今この版木を作るには30億円はかかるとも言われます。鉄眼は全国を勧進行脚。その頃までの慣例と異なり、一部の有力者だけでなくあらゆる階層の人に経典の刻版事業を訴え、浄財は順調に集まりました。

 ところが延宝二年(1672年)6月大坂で大洪水が起こり被災者が続出。鉄眼は「一切経より人命が大事」と集めた資金を使ってしまいました。

 そして改めて全国行脚の旅に出ますが、資金が集まったところで、今度は近畿地方の大飢饉になります。鉄眼は今度も救援のためすべて放出します。

 そして三度目の全国行脚に出かけます。そしてそれを終えた時には過酷な旅のため鉄眼は病気になってしまいます。しかし鉄眼の志と善行は多くの寄進と協力を集めついに1681年発願17年目にして七千巻の経典の版木が完成しました。鉄眼はその翌年53歳をもって遷化しました。
「鉄眼はその一生に三度一切経を刊行せり」とも言われています。


 使われた版木は良質の吉野桜。タテ26センチ、ヨコ82センチの版木に2丁分、それが表裏に刻印してありますので版木一枚に4丁分。その版木が6万枚。1丁分が四百字原稿用紙に一枚分に当たり、今の原稿用紙はこの鉄眼版が元になったといわれています。なるほど手に取ってみるとずいぶん大きいですが原稿用紙と同じ形式をしています。

 さらに底本にした明時代の万暦版大蔵経の字体を彫りやすく、くっきりと印字できるように工夫がされました。これがいま日本で最も多く使われている明朝体という字体のもとになっています。またこの事業に携わった職人たちの開刻技術はその後の日本の印刷技術に大きく貢献したといわれています。

 そして何よりも、それ以降広く多くの人が経典を手にすることができるようになった功績は計り知れないものがあります。

 しかし、新たな技術の開発により今では簡単に経典を手に入れることができるようになり鉄眼版はその役目を終え宝蔵院で重要文化財としてひっそりとたたずんでいます。復刻作業も刷り師の後継者が途絶え難しくなるだろうといわれています。


 さて、私がその印本を欲しいと思った根拠は単純なものでした。情報過多の中で言葉が軽くなったと感じているなかで、一文字一文字丁寧に刻んだ経典を読み経典の重みをしっかりと感じたいという情緒的なものでした。

 私のお寺から1キロほどの所に「新宮寺」という黄檗宗のお寺があります。そこのご住職を通して本山万福寺宝蔵院に連絡を取ってもらいました。「うちの寺は浄土真宗なので浄土三部経が欲しい。鉄眼版を印刷してもらえないか。」という問いはあっさり断られました。

 理由は「無量寿経、観無量寿経は大きなお経だからずっと印刷していない。きちんと印刷できるか確認できてないし、その予定もない。」ということでした。

 しかし「阿弥陀経は印刷できそうだ」ということで、お願いすると、しばらく待ってくださいということでした。

 しばらくして連絡があり、「鉄眼版一切経開刻330年記念事業として『仏説阿弥陀経』を特別印刷の企画をするのでしばらく待ってほしい、出来上がったら真っ先に届けますので、」ということでした。黄檗宗は念仏禅ともいわれるように、宗門においても「仏説阿弥陀経」は読まれることがあるそうです。

 さらにひと月して届きました。真っ先にということでしたが、製本番号は一番ではなく百番、当方は宗門外の人間ですからそうでしょう。

 宝蔵院ご住職の「待たせて申し訳ありませんでした。大切に使ってください。」との添え文がありました。

 しかし黄色の宇和泉貨紙という良質のコウゾ紙に330年たったとは思えないほどくっきりと文字が写されています。「阿弥陀経」と小品2巻がまことに丁寧に折本として製本されています。代金七千円也プラス送料350円。期待通りのものでした。

 手に取りながら、当時の鉄眼の「広く経典が流布されるように」という願いが見事に再現されている思いがしたことでした。

 商売のうまい教団だったらきれいな桐箱に入れて「ン十万円でお分けします」というのもあるかもしれないけど・・・・・。

 禅宗というのは時々シビレルような素敵なふるまいをするんですね。


 しかし気になるのは、「無量寿経」と「観無量寿経」がこのまま印刷されないまま版木が朽ち果ててしまうのかなぁ、ということです。


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鉄眼―一切経刻版に賭けた生涯 (1982年)

鉄眼―一切経刻版に賭けた生涯 (1982年)

  • 作者: 片岡 薫
  • 出版社/メーカー: ヘラルド・エンタープライズ
  • 発売日: 1982/07
  • メディア: -



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