SSブログ

信心のしるし(上) 本多靜芳(東京教区万行寺住職 アーユス仏教国際協力ネットワーク理事) [2015年1月1日号(第118号)]

・信楽峻麿先生との出遇い
信楽先生と初めて、お話しをする機会に恵まれたのは、1991年、日本佛教学会学術大会が開催された大正大学でした。

当日、私は、真宗教団における負の遺産である『真俗二諦論』の展開とその功罪、そして、本願寺派教団の基幹運動の展開とその問題点などの研究発表をしました。終了後、同会場におられた先生に、ご挨拶をし、また発表についてのご助言をお願いしました。先生は、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか、ということじゃよ」というお言葉を頂いたのです。

いや、そういう言葉として私の記憶に残ってしまいました。もちろん、学会発表を済ませた安堵感や、数日来睡眠不足ぎみで朦朧としていた私の頭を、がつーんと撃たれたようで、私の「いのち」の目を覚ましてもらったのはいうまでもありません。

5271de4f311f40f6a512481b7bb45afd[1].jpg

・素朴な疑問
私は、1957年、築地本願寺の隣の万行寺の一人息子として生まれました(現在、東京都東村山市に移転)。それなりに、親鸞聖人の浄土真宗、そして大乗仏教を学びました。大学生の頃、「南無の会・辻説法」、「築地本願寺・仏教文化講演会」、「在家仏教協会・講演会」などで仏教の話を聞くうち、親鸞聖人がいわれていることと、本願寺八代の蓮如上人のいわれていることは、言葉遣いは似ているけれど、本質的なところで違いがあるという素朴な疑問を抱きました。

そして、私がたどりついたのが、信楽峻麿先生の研究と学びの姿勢でした。先生の御近著『真宗学シリーズ①現代親鸞入門』(法蔵館)などから、この問題を次のように学んでいます。


・真俗二諦論
浄土真宗には、「真俗二諦論」という考え方があります。これは親鸞聖人の曾孫、覚如上人に始まり、蓮如上人へと続く伝統教学の系譜です。

真とは仏法のことです。俗とは世俗ということです。諦というのは原理という意味です。

 ┌真諦―仏法―心―信心(信)
 └俗諦―世俗―体―生活(行)

この論法では、私たちがこの人生を生きるにあたって、二つの原理があってよろしいといいます。それが現在も、本願寺派の伝統教学の根源になっています。

在家生活でいいかえますと、お仏壇の前に坐っているときは仏法の原理(仏の智慧)を立てろといいます。ところが一歩仏壇の前を離れて台所に入ったら、世俗の原理(人間の理性)でよろしいというわけです。

仏壇の前に坐っているときは、お念仏を称え、世間は虚仮なものと見据える仏さまの教えに手を合わせています。しかし、一歩仏壇を離れて台所に戻ったら、仏法とはかけ離れた、世間の倫理(道徳)・論理(合理)に従えばよいというのです。

お寺にいる僧侶の立場でも同じです。本堂(儀礼空間)にいるときは、袈裟をつけ門徒さん向けの仏法中心の教えを説いているけれど、いざ、庫裏(生活空間)に帰ってきたら、仏法を離れた世俗の論理に立った生活に切り替えてよろしいということです。その場その場で使い分ければいいのですから大変、都合がよい話です。仏教の原理と世間の原理の二本立てということです。

果たしてこのような生き方は、親鸞聖人のお示しになったものでしょうか。その主著『顕浄土真実教行証文類』「総序」には、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれます。

行とは念仏の生活、信とは真実の仏法。親鸞聖人は、これ以外のところでも、この二つをセットでお使いになっています。行と信は別のものではないのです。信心を離れた念仏はなく、念仏を離れた信心はありませんというのが親鸞聖人のお示しであったわけです。(続く)


現代親鸞入門 (真宗学シリーズ1)

現代親鸞入門 (真宗学シリーズ1)

  • 作者: 信楽 峻麿
  • 出版社/メーカー: 法藏館
  • 発売日: 2010/03
  • メディア: 単行本








nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。